特別お題「今だから話せること」
最初に:以下は、ノンフィクション(注:8,900文字)です。
あの日、本当は、祖母にも感謝を伝えたかった。
あの日、本当は、祖母にもカーネーションを贈りたかった。
祖母(ハマ子)は、四年前にこの世を去りました。
2019年8月、暑い夏の日でした。
今にして思えば、周りへの気遣いの達人だった祖母は、人生最後の日もベストなタイミングでこの世を去ったという気がします。もしあと半年生きていたら、2020年のコロナ禍に巻き込まれて、たとえ生きていたとしても施設(特養ホーム)の月一回の訪問や面会は叶わなくなっていたでしょう。葬儀にしても親近者のみでひっそりと弔うことしかできなかったかもしれません。
祖母の告別式は、祖父の時よりは少なかったものの100人は参列者があったと思います。その後の3回忌(2021年)にも50人以上が集まってくれました。祖父の時と同じ地元の知り合いの老舗料亭の大広間を貸し切りでの法要でした。祖父母とも90歳を超えて生きたので、周りの知人・友人の多くは既にこの世を去っており友達などの参列者は少なくなかったはずでしたが、祖父が長年に渡って地域のまとめ役(町会長や老人会会長など)を務めていたこともあり生前にたくさんの人をお世話してきたので、自分より若い世代の方々にも見守られてこの世を去ることができたのだと思います。老人会の旅行などで巻き起こるお腹を抱えて笑える(漫画のような)ハプニングから深刻な相談事まで、祖父母宅はいつも訪れる人々の「様々な情報」で溢れていました。
あの夏(2019年8月)、まだ祖母の2人の妹たちも健在で通夜・告別式に参列してくれました。まさかその1週間後にすぐ下の妹(K代さん)も他界するとあの時は誰が予想したでしょう。関係する身内は短期間に身内の葬式が続いた夏でした。亡くなる数年前から認知症になり特養ホームで過ごしていた祖母。同じく認知症が進み、ほとんど記憶が薄れていたすぐ下の妹のことが気がかかりで呼んだのかもしれません。
天国で二人が、
「なーに、K代ちゃん、もうこっち来ちゃったん?」
「だってさあ、ハマちゃんいなくなったら寂しいじゃない・・(笑)」
そんな会話を交わしたかもしれません。
数年後(2021年夏)、ついに末妹のS子さんも2人の元へと旅立ってしまいました。
「何?S子ももうこっちに来ちゃったの?K太(S子さんの息子で祖母の甥)が悲しむよ」
「二人がいなくなったら寂しくて。話し相手(旦那様)ももういないんだから、生きていたって息子家族のお荷物なだけじゃない。(笑)」
そんな風に言い合って、3人で笑い合ったのではないだろうか。
人柄が良く、仲の良かった3姉妹は、死でさえも明るい想像に変えてしまいます。(実際には、祖母の上に兄と姉がいたのですが、この2人はどこかいつも遠慮がちで物静かで辛抱強い人たちでした。特に一番上のお姉さんは昔でいう「奉公」に出ていたそうで、長い間ずっと家族と離れて生活していたので姉妹というよりは母親のような尊敬する存在だったそうです。)
祖父の後妻であった祖母は、私とは血が繋がっていないにも関わらず、身内の誰よりも私を可愛がってくれました。実母とは幼少の頃から折り合いが悪く馬が合わなかった私にとって、祖母は心の(育ての)親も同然だったと自他ともに認めています。
だからこそ、あの特別な日に、母だけでなく祖母にも感謝を伝えたかったのです。思い返せば、いつだって私は母の顔色を伺って生きてきた気がします。母は、誰よりも私を愛してくれましたが(だからこそ祖母に嫉妬する)、誰よりも私を傷つけてきた人でもありました。
披露宴での「私を産んでくれてありがとう」は、私から母に贈る精一杯の感謝の言葉でした。ですが、本当は、「私は産まれたくなどなかった」のかもしれません(生まれた時に私は仮死状態でした)。それでも、色々なことがあった中で、「産む」という選択をしてくれた母へのありったけの感謝の言葉だったのです。決して、軽い「ありがとう」はありませんでした。この言葉を無闇に軽く扱う時、言葉の重みは薄れてしまいます。
母は、私にたくさんのもの(特に経験や物質面において)を与えてくれたと同時にたくさんのもの(特に精神面において)を奪った人でもありました。生まれて半世紀が過ぎようとしている今でも、時々夢に魘されることがあります(夢の中で母に向かって「お母さんなんて大っ嫌い!」と叫び、自分の声で目が覚めることが何度あったことか・・)。それだけ、私は母が無意識に(あるいは意識的に)発する暴言に傷ついてきたことに今更ながら驚きます。
母は、長男である弟を「跡取り」として金銭面などでも私と妹とは別格に扱ってきました。その結果、弟は結婚すると間もなく、両親とお嫁さんとの喧嘩をきっかけに早々と両親の元を去り県外に家を建ててしまいました。その時、因果応報とはまさにこのことだなと思いました(その昔、祖父母にあなたがたがしたことがそっくり返ったんだよ・・)。それでも、お嫁さん憎さよりも弟可愛さが勝り、新築祝いは我が家の何倍だったかは知りません。
父は一人っ子(他の兄弟姉妹は当時の流行病で幼い頃に病死しています)で寂しがりやでした。その父が、将来の家族みんなで住むために建てた大きな家。二階の角にある私の部屋は、弟たちの結婚当初、父の独断で(私には無断で荷物が運び出されて)お嫁さんに明け渡されました。それが今では弟家族もいなくなり、両親が二人きりで住むには大きすぎる箱となっています。末っ子の妹は、私と違い昔から要領がとても良いので、自分に依存してくれる人間に弱い母の性質をよく知っています。そこに取り入って、「この子はメンタルが弱いから(両親と一番早くに死に別れるのだから)」と妹を甘やかしてきたツケで、果たして結婚してからもことあるたびになんでもかんでも「親の育て方が悪かった」せいにして袖の下を当てにし続けるようになってしまっています。確かに母の子育て方は褒められたものでなかったと思います。ですがそれは、妹に対してのみではありません。
両親は、いつも都合良い時だけ私を「長女扱い」してきました。そのことにも、私は昔から強い抵抗を感じていましたが、ある時ついに自分の中で堪忍袋の尾がプッツンと切れてしまい「この人たちに自分の気持ちを話しても一生分かり合えない」と諦めて、「(この家においては)損な役割でしかない長女」を心の中で放棄してしまいました。
以降、自分たちの都合で「損得で判断するな」とか「長女なのに」と言うフレーズは、馬耳東風、私の心には全く響かなくなりました。姪っ子(妹の長女)が子供の頃に「おばちゃん、長女って損だね・・」と泣いて訴えたことがありましたが、子供でもわかるくらい損な役回りを押し付けられてきたのだと思います。もちろん、長女で得だったこというのも下の子に言わせるとたくさんあるようですが。通常であれば先に生まれた分、下の子が生まれるまでは親や周りの愛を独り占めしているわけなので、その言い分にも一理あると思います。実際、自らを省みても姪(長女)や甥(長男)の誕生日や入園入学時期は覚えていますが、その下の子たちの誕生日となるとすっかり忘れているのですから。
「うちは平等に育てている」などと宣う親ほど、真逆だったりするものです。
(わざわざ公言しないとそう思わせることができないのですからね・・)
母とのことで記憶に強烈に残っている嫌なことを挙げたら枚挙に暇がありませんが、卒業式の前日に母が家出をしたこともその一つです。卒業式に来てくれるのか不安でいっぱいで、前夜は眠れませんでした。当日の朝、どうやって式典に来ていく服を選び、誰と一緒に家を出たのか、全く記憶にありません。服はきっと祖母が選んでくれたのだと思います。結局、母は式典開始の時間になるとどこからともなく現れましたが、式が終了する頃には母の姿は消えていました。
そのような振る舞いががどれほど子供たちの心を不安定にし度々に傷つけてきたのか。そんなことよりも自分の気持ちがいつでも優先な人でした。母の母(母方の祖母)がそうだったのだから仕方ないよね・・といつからか私はそんな風に考える分別のある子供になっていました。
その時の母の家出をきっかけに、大好きな祖父母と暮らす家を出ることになり、家族みんなで暮らすために祖父が建てた新居をたった5年で去る日がやってきました。
その一件は、私たち(孫たち)にとっては祖父母との別れであり、父にとっては父の実母が他界した後、祖母(後妻)を迎えるまで男手一つで育ててくれた祖父を見捨てるという心の傷となったようでした。父にとっては苦渋の選択だったと思います。また、大切な一人息子と孫たちが去っていくことがどれほど年老いた祖父母にとって寂しかったか。
一旦は、私も両親について祖父母の元を去りましたが、元より私は母とは馬が合わなかったため、大学受験を控えていた高校3年生の春に再び大喧嘩になり、「勉強に集中したいから(高校のすぐ近くにある)祖父母宅から高校に通いたい」と懇願して祖父母の家に戻りました。あの時は、父のアルコール依存からの騒ぎが発端でした。妹と弟には悪いけれどこのままでは受験に失敗する未来しかないと思いました。父に殴られた勢いで冷蔵庫にぶつかった時にできた私の口元の傷は今でも消えません。「整形費用を出すから治せ」と言われたことは一度もないです。あの一件以降、父の母や私への暴力はピタリと治まりました。きっと父なりに相当に後悔と反省をしたのだと思います。ですから、妹は父から暴力を受けたことは一度もありません。私は、生きている限り、この傷を見るたびに、あの日のことを思い出すでしょう。(今の父はすっかり温和になり、家庭菜園で作った野菜を子供や孫達に送るのが生き甲斐のただのおじいちゃんです。私の投資の師匠でもあります。今の父から昔の姿は想像できません。)
そんな事情もあり、私の大学受験の一年間を心身ともに支えてくれたのも祖父母でした。祖母は夜も遅くまで起きていてくれたり、朝は一緒にお弁当を作ってくれて、制服にはいつも綺麗にアイロンがかけられていました。あの一年間、祖母は私にとってまさしく実の親以上に親でした。
私自身はあまり記憶にないのですが、私が2歳を迎える頃にも母が家出をしたらしく、戻ってくるまでの一年間は保育園への送り迎えなどの世話をしてくれたのも父ではなく祖母でした。当時、保育園に勤めていた近所の女性(Tさん)の話では、私はいつもしばらくは教室に入らずに砂場で一人で遊んでいたらしいです。「ママがもしかしたら迎えにきてくれるのでは?」と子供心に思っていたのでは・・とTさんは何も記憶がない私の代わりに涙を流しながら話してくれました。夜は夜で、シクシク夜泣きする私を祖母が背中に背負って寝付くまで近所を散歩して歩き回っていたそうです。母くらいの女の人を見かけるたびに「あれ、ママかな?」と私が尋ねるので、その度に祖母は「明日には帰ってくるかもれないね」といいながら涙を流していたそうです。
弟が生まれたあとは、母は子育てと家業に追われて私の保育園の行事には参加できなかったので、代わりに祖母が行事にはいつも同伴してくれていました。初めての遠足(大型バスでの旅行)で行った群馬県の榛名湖では、大きな白鳥の遊覧船に祖母と一緒に乗ったのを今もはっきりと覚えています。祖母の付き添は我が家だけだったため、ある男の子(Yくん)に揶揄われました。その度に私はメソメソと泣いていましたが、のちにYくんのお母さんはYくんを出産後に病死されたと知りました。後から来た継母には腹違いの双子の妹さんがいました。彼は妹たちを可愛がっていたようでしたが、本当はストレスだったのでしょうね。
上野動物園に初めてのパンダ(カンカン♂とランラン♀)がきた時に上野までパンダを見に連れて行ってくれて、モノレールに初めて一緒に乗ったのも祖父母で、保育園から小学校卒業までの運動会の様子を8ミリビデオで撮影してくれたのも祖父でした。(父は常に家業の仕事以外は自分の趣味や遊び優先の人でした。それが母を苛立たせる最大の要因だったように思います。)
大学進学と同時に上京して実家を離れる日が来ると、祖父母と離れるのは(祖父母の気持ちを考えると)悲しかったけれど、これでやっと両親の元を離れられるのだと思うと心底ほっとしたのを覚えています。夏休みなどに帰省するときも私は祖父母宅に泊まり、就職で地元に戻った四年間も(両親のいるマンションにはもう私の部屋はなくなっていました)祖父母と一緒に暮らしました。私が新入社員の時、祖母は毎朝、靴をピカピカに磨いておいてくれました。「銀行員は服装よりも足元を見るんだよ」と祖母は口癖のように言っていました。そのお陰で、私も結婚してからは自分と主人の靴をいつもピカピカにする習慣が自然と身についていました。
結婚して実家を離れてからも、しばらくは車で30分ほどのところに住んでいたので週末は祖父母と一緒に色々なところに出かけました。当時、私と主人が勤務していた田舎の会社は、基本給が長時間労働に対してありえないくらい低かったので(氷河期世代で大卒夫婦合算でも手取りは月30万円以下でした)一緒に買い物や食事をして会計をしてくれることで新婚家庭をさりげなく助けてくれていたのだと思います。また、祖母の自慢だった「けんちん汁」を作った日は、わざわざそのためだけに祖父が車で片道30分の距離を届けてくれたりもしたこともありました。(今は私自身で「祖母の味」を再現して作ったときは祖母の仏前に供えています。)
ある時、祖父は新居(注文住宅)を買ってくれると申し出てくれたことがありました。ただ、主人には転職をして再び都会へ戻りたいという希望があったので、せっかくの祖父母の申し出でしたが辞退をしました。本当は家を買ってくれてまでも側にいて欲しかったのだと思います。もしもあの時、家を買ってもらってしまっていたら、今も田舎にいてその先の未来は変わっていたのかもしれません。
転職が決まり、再び都会へ戻ることが決定した時は、祖父母に対して後ろめたい気持ちでいっぱいでした。それでも引越しの日には、祖父母は朝から手伝いに来てくれて、私たちの車が見えなくなるまで手を振り門出を見送ってくれました。
祖父母は、当時80歳を超えていましたが、年に数回ほど新居(東京)にも電車に乗り継いで遊びにきてくれました。上京する時は東武特急(両毛号)で来ていたので、終点の浅草まで迎えに行きました。そこから日比谷線かタクシーで移動し、築地でお寿司を食べたり、銀座で買い物をしたりしました。帰りには浅草の「梅むら」であんみつセットをいただき、当時は浅草(2F)の 東武特急の乗り場前にあった喫茶店でコーヒーを1杯飲むのがお決まりのコース。一日お世話になったお礼に、祖父の大好物だった「野菜サンドと卵サンド」をお土産に買ってあげると、それを帰ってから食べるのが祖父の楽しみでした。
主人の両親から感謝されるほどに主人のことも可愛がってくれましたた。(私よりも主人にたくさんのプレゼントをしてくれていましたし、行く先々で主人と並んで撮った写真をいつも自宅に飾っていました。)
もちろん、金銭面では何不自由なく育ててくれた両親にも感謝をしていないわけではありません。母が与えてくれたのもだってたくさんありました。その一つが本です。いつでもたくさん用意されていて選びたい放題でしたし、家業と子育てで忙しい毎日の中でも幼稚園に上がる頃までは、寝る前に本を読んでくれました。私たちを寝かしつけた後も、仕事(家業の経理事務)をたった一人で明け方までしていたのも知っています。留学(渡米)を迷う私の背中を押してくれたのも母でした。留学中、滞在先へ届いた何十通ものエアメール。人生の節目では、成人として必要なプレゼント贈ってくれました。その一つが、今でも大切に使っている本真珠のネックレスです(とても高価なもので自分ではとても手が出ません)。父との思い出といえば、半世紀生きてきた中で数えるほどしかありませんが、幼い頃に連れて行ってもらった山登りや川遊び、父の友人一家と行く年一回の海水浴は覚えています。本当に少なかったから、逆に記憶に鮮明に残っています。
祖母が息を引き取った日、母からスマホに連絡を受けて、私は電車で往復6時間の距離を会社からそのまま特急に飛び乗って駆けつけました。すでにほとんど意識はなく、「話しかけても無駄だぞ・・」と父には言われましたが、それでも私は骨と皮だけになった祖母の小さな体をそっと抱きしめて「ずっとお世話になるばかりで、甘えてばっかりだったよね。おばあちゃん、ごめんね。本当にありがとう。おばあちゃんへの感謝は私が死ぬまで絶対に忘れないからね」と心で伝えると、「おばあちゃんのことを忘れないでいてくれたらそれだけでいいんだよ」と聞こえた気がして、祖母の顔をみると、閉じたままの目にうっすらと涙が滲んでいました。その時、かすかに心電図が呼応して手が温かくなり、父も医師も驚いていました。
その後、意識が戻らないまま、未明に祖母は息を引き取りました。
話が前後しますが、危篤になる1週間前、特養ホームを訪れたときのことです。「明日も会いに来てくれるかい?」と珍しく祖母が尋ねました。「明日は横浜に戻るからね。また来月、試験が終わったらすぐに会いにくるね。」という私に、いつもならば「待ってるからねー」と車いすから(少しの抵抗で)後ろ向きに手を振っていた祖母は、何故かあの日は車椅子のまま玄関まで見送ってくれました。そして、私の手を取ると祈るように「元気でいるんだよ」と言いました。その頃、特養ホームでも隣室の方が亡くなったりもしていたので、少し気が弱くなっているのかなと思い、「また来るからね。それまで元気で待っていてね。」という私に、祖母はただ「みんなによろしく伝えておくれ。」とだけ返しました。駐車場に戻りながら、後ろを振り返ると、祖母が手でそっと涙を拭っているのが見えました。今にして思えば、あれが私の姿を見る最後になると、祖母はどこかでわかっていたのかもしれません。
特養ホームへの入所は、祖母の意思とは全く関係なく決まりました。痴呆が進行して一人では食べ物やお金の管理ができなくなっていたのと肺に水が溜まっていたために、医療行為の可能な施設に入所する必要がありました。ただ、本人がずっと拒否していたために、その時期が遅れてしまい、最後は半ば強制的に(かかりつけ医に行くよといって)母と知り合いのケアマネージャーさんとで連れ出してそのまま入所となったのです。特養ホームに面会に行くたびに祖母はいつも、「一度でいいから家に帰りたい、連れて行っておくれ」と訴えていました。そのことを両親に相談しても、「家に帰ったら最後、ホームに戻るのを嫌がるだろうから・・」とその願いはついに果たされることはありませんでした。
祖母の告別式の日、1年ぶりに祖母の住んでいた家に行ってみると、祖母が普段から履いていた靴がいつも祖母が出入りをしていた縁側の石の上にちょこんと、体温が伝わってきそうなほど、まるで今脱ぎましたという具合で揃えてありました。「Kちゃんかい?」といつものように奥から祖母の声が聞こえてくるのでは?と思わず窓を開けようとしましたが、当然ながら鍵がかかっていました。すぐ側には、30年前に私と一緒にホームセンターで購入したハツユキカズラが地面で勢力を拡大して生い茂っていました。おばあちゃん、あの時買ったたった一鉢をずっと大切に育ててくれていたんだね。やっと自分の家に帰れたね。ずっと帰りたかったんだもんね。たった一回でも、連れてきてあげたかった。「何かあったら」なんて、どのみち人間はいつか死ぬのだ。ましてや、もう先が見えている人なに、万一より希望を叶えてあげたってよかったのではないだろうか。そう考えてしまうのは、無責任なことなのだろうか・・。
これまで、親しい友人にさえ、家族のことは話したことはありません。
我が家のこんな事情を知る人は近所の人や親戚だけです。
その人たちも、ほとんどが今はもうこの世を旅立ってしまいました。
あの日、本当は、祖母にこそ感謝を伝えたかったし、伝えるべきだったと思います。
祖母にもカーネーションを贈りたかったし、贈っても良かったのだと思います。
仮に、母の機嫌を損ねたところで、それは一瞬のことだったはずだから。
伝えるべき時に、伝えたい人に、伝えられなかった後悔というのは、いつまでも心に残る。
ずっと、母のちっぽけなプライドに付き合ってきた自分が馬鹿馬鹿しい。
全ては、後悔しても、今更もう戻れない過去の出来事です。
そして、きっとこれからも、誰にも話すことはないと思います。
ただ、私自身の心の奥の本音を「今だから話しておこう」と思いました。
そのきっかけを、はてなブログのお題に、いただいた想いです。
おばあちゃん、貴女とは血のつながりこそなかったけれど、
生まれ変わってもまた、私はまた貴女に会いたいです。
「逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます」
「今世で 二人に出会えた私の人生は 幸せでした」
今もどこかで、祖父母が見守ってくれている、ふとそんな気がします。
今回、書くことを最後まで迷いました。ですが、こうして書き出してみると、自分がどう考えてきたのか、どう思っているのか、心の整理できたように思います。
末筆ながら、長文を最後までお目通しくださり、有り難うございました。